なるしすのブログ

地方の弁護士の日常を,あれこれと書くつもりのブログです。

 田中館照橘先生の思い出

 昨日、憲法のお話をたくさん書きました。お読みくださったみなさま、ありがとうございました。
 あの文章を書きながら、田中館照橘先生のことを思い出しました。
 田中館照橘、といっても多くの方はご存じないでしょうし、すでに亡くなられて何年もたっています。先生は、僕が通っていた大学で行政法の講師をしておられました。その1回目の講義の印象が物凄く強かったのです。
 先生は、行政法という学問は、国家権力をいかに法律でコントロールするかという観点の学問であり、たいへんダイナミックでスケールの大きいものだ、ということを強調されました。その中で、僕が昨日書いた歴史の話とか、「法律による行政の原理」(=行政は、法律によって初めて権力を与えられるものであり、行政権は法律の範囲でしか行使できないという原則)ということを説明されました。
 そして、民法というのが、私人間の「金を貸したが返さない」とか「結婚だ離婚だ」というような小さなことをテーマにしているのに対し、行政法は国家対市民をテーマにした学問で、生涯を通じて研究するに足りる学問だということを、それこそ熱く語っておられました。
 授業も終わりにかかったころ、先生は、机の上にあった六法全書を手にとりました。有斐閣の上下2分冊、合わせて数千頁にのぼる本です。先生は、おもむろに、民法のページを開くと、民法の箇所だけ、バリバリと破き始めました。民法の箇所は、わずか100頁くらいしかありません。先生曰く、「民法なんてこれだけの量しかない。あとは全部行政法だ。行政というものは、国民生活の実に広大な分野に及ぶもので、それをコントロールするにはこれだけ多くの法律が必要なのだ」といわれ、われわれ学生に、行政法の勉強をするよう強く薦められたのです。
 実をいえば、僕が田中館照橘先生の講義を選択したのは、公務員試験の勉強になるかも、という理由からに過ぎませんでした。そのころ、司法試験も受験する気はありましたが、どうせダメだろうから公務員試験も受けようか、などと考え、就職活動もはじめていた時期だったのです。ですが、先生のこの授業にはたいへん感銘を受けました。と同時に、先生がいわれた行政法のスケールの大きさ、あるいは憲法を頂点とする行政法の理念というものに、深く感動したのでした。学問に打ち込むほど頭がよくないと分かっていた僕は、学問としての行政法を深く探求することはありませんでしたが、それ以来、司法試験を受け、法律の分野を自分の職業とすることをまじめに考えるようになりました。
 司法試験には、法律選択科目というものがあり、行政法も選択科目に入っています。一般的には、行政法は東大をはじめとする国立大学の学生がとるものだ、といわれていました。私大では、伝統的に在野の精神が強く、行政法などをまじめに教える先生が少なく、私大生が選択する科目ではない、と考えられていたのです。僕は、田中館照橘先生のおかげで、行政法を楽しく勉強することができ、司法試験でも迷わず行政法を選択しました。いま、こうして合格できているのも、田中館先生のおかげだと思います。
 先生の授業を一方的に聴くだけで、一度も質問をしたり、言葉を交わしたこともないのですが、目からウロコの授業をしてくださった田中館照橘先生は、密かに恩師だと思っています。