なるしすのブログ

地方の弁護士の日常を,あれこれと書くつもりのブログです。

クリスマスミサに参加してみた


 空港から市内に戻るリムジンバスでtwitterを覗いていたら、ちょうどクリスマスイブの礼拝のことが話題になっていました。
 ぼく自身は、まったくクリスチャンではないのですが、幼稚園だけはキリスト教系(プロテスタント)で、クリスマスには同じ敷地にある教会で賛美歌を歌ったような記憶があります。また、毎年のようにこの日記にも書いていますが、救世軍の社会鍋活動にも共感をおぼえたりして、ぼくの中にもなにかクリスマスを神聖なものとしてとらえるような素地があるのかもしれません。
 そんなことをツイッターでつぶやいていたら、「クリスマスイブ礼拝いいですよー」って言ってくださる方もいて、空港から戻ったその足で、ちょっと近所の教会を覗いてみることにしました。教会といっても、市内ではもっとも大きく、「世界平和記念聖堂」や大学も持っている大きな教会です。建物もとても荘厳で由緒あるたたずまい。カトリック系らしいのですが、もともとプロテスタントとの違いもよくわからない。教会の前でうろうろしつつ「ちょっと覗いてみたいだけなんですけどいいですか?」と受付の人に聞いてみました。快く中に入れていただいたところ、教会内は人でぎっしり。いわゆる立ち見の人たちもいっぱいで、すでにミサが始まっていました。賛美歌もラテン語の難しいもので、儀式も本格的。2部構成になっているようでしたが、とりあえず1部で帰ってきました。
 それでも、この地でキリスト教の話を聞いていると、やはりキリスト教でいう「愛」とは何か、「平和」とはなにかということを自問自答せざるを得ません。原爆投下について、当時のキリスト者の人たちはどう考えていたのか、今でもアメリカ人が原爆投下を正当化しているように、キリスト教の人たちもそれについてどう思っているのか、ちょっと聞いてみたいような気もしました。また、もし、イエス・キリストが今の世に生きていたとしたら、いったいどんなことをお話しになるのだろうか、なんてことを考えていました。
 それから、そもそも弁護士というのは、人間同士の醜い争いを飯の種にしているわけで、もっとも世俗的・通俗的な仕事なんじゃないかと思います。キリスト教を信仰する法曹は決して少なくないと思うのだけど、彼らはどういうことを胸に秘めて仕事をしているのだろうか。そんなことが気になりました。
 そういえば、ぼくの司法研修所での民事弁護の教官は非常に敬虔なクリスチャンで、毎年いただく年賀状にはいつも聖書からの引用が書いてあります。この業界はもちろん、どうもその世界でも有名な人のようなのですが、今から思えば、もうちょっとそうした内面的な生活についても、教えてもらっておけばよかったかもしれません。きっと喜んで教えてくれただろうなあ・・・。
 そんなわけで、時間でいえば45分間だけ覗いてきたクリスマスミサですが、普段は考えもしないようなことに思いを巡らせるいい機会になりました。家にあるキリスト教関係の本といえば次の2冊くらいしかなく、それらも積ん読状態になっていました。この年末にちょっと読んでみようと思います。

イエスはなぜわがままなのか (アスキー新書 67)

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Pen (ペン) 2010年 5/15号 別冊 [雑誌]

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