なるしすのブログ

地方の弁護士の日常を,あれこれと書くつもりのブログです。

今枝弁護士はどこに向かうのか?

 光市母子殺害事件の弁護人だった今枝弁護士。その後の一見すると奇異な行動は、ちょっと世の中の注目を集めたし、その顛末を彼自身が本に書いてまとめたりもした。

なぜ僕は「悪魔」と呼ばれた少年を助けようとしたのか

なぜ僕は「悪魔」と呼ばれた少年を助けようとしたのか

 その今枝弁護士は、かつて、市議選に立候補して落選した。
 そもそも、今も昔も、政治家を志す弁護士は少なくない。評判はどうあれ、仙谷さんも枝野さんも弁護士出身だ。
 さっきTwitterでもつぶやいたのだけれど、弁護士をやっていると、政治家を志す気持ちが分かるようになる。
 というのは、弁護士として様々な活動をやっていると、立場の弱い人、経済的に恵まれていない人、社会的に不当に差別されている人、いわゆるマイノリティと言われている人たちに接する機会はとても多い。そうした人たちは、常に「強者の論理」にさらされている。強者は、政治的にも国を動かし、あるいは多数派を形成して立法や行政を動かしていく。弱い人たちは、そうした論理の前にはなすすべがないということが多い。弁護士が、そうした人たちの力になりたいと思うことはある意味、当然だし、そのためには、政治家として地域や組織の中で影響力を持って働きたい、権力と対峙し、その権力を中から変えていきたいと考えることは自然なことだと思う。刑事弁護も、状況は違えど似たようなものだ。検察という国家権力の前では被告人なんて吹けば飛ぶような存在でしかない。弁護士が、刑事弁護人となって情熱を燃やすことができるのも、被告人を支えたい、彼の更生に力を貸したいと願う気持ちがあるからこそできることだ。
 ぼくはかつて、今枝弁護士が市議選に出たときも、きっとそういう理念で立候補したのだと思っていた。決して、お金や名誉が欲しかったのではなく、純粋に弱い人たちの側にいて、弁護士プラスアルファとしての働きがしたかったのだと信じていた。ぼくが住む街は、彼の選挙区とは違っていたので、彼に投票する機会はなかった。でも、彼が繁華街の路上で、たったひとりでマイクを握って声を枯らしていたときは声をかけたりもしたし、彼も懸命に頑張ろうとしているように見えた。
 その今枝弁護士が、橋下市長が党首になるという維新の会から国政選挙に出るという。これはいったいどうしたことだろうか。
 ここで言いたいのは、かつて橋下が光市母子殺害事件弁護団を強烈に批判していた、ということではない。そのことはもういい(本当はよくないけど)。
 維新の会の政策は、弱い人たちのことを何も考えていないように見える。維新の会が目指す社会は、弱者が強者と共生できる社会と言うよりは、ますます格差が広がっていく社会のように見える。それになぜ、弁護士が加担するのか。権力やそれを支持する大衆にすり寄ることで、今枝弁護士は何をめざし、どういう社会や国を作ろうとしているのだろうか。いまの今枝弁護士には、かつて路上にひとりで立っていたときの面影はないように思える。
 今枝弁護士がどこに向かい、何を模索しようとしているのか。ひょっとすると、別にどうでもいいことなのかもしれない。しかし、同じ弁護士会の会員として、ちょっと気にせずにはいられないところもある。ただ、今枝さんは、ぼくが考えているような弁護士ではなかった。それだけは確かなようだ。