なるしすのブログ

地方の弁護士の日常を,あれこれと書くつもりのブログです。

『検事失格』は単なる暴露本?

検事失格

検事失格

 少し前に話題になった市川元検事の『検事失格』という本を読みました。
 いわゆる「佐賀農協事件」で無罪となった被告人に暴言を吐いたことで、検事を辞めたひとの手記です。
 この本では、著者が司法試験に合格してから検察官になり、そして検事を辞めるまでの出来事が時系列で書かれています。
 一読して思ったのは、この本は芸能人などが書く「暴露本」と同じようなものではないのかということです。要するに、検察庁という組織や同僚の検察官の中に、いかにとんでもない人が大勢いるのか、自分が調書を作文したり、被疑者に冒険を浴びせるようになってしまったのがどのような外因によるものかということが、ちょっとセンセーショナルに書かれているということです。この本のキモとなるはずの「佐賀農協事件」についても、いかに捜査を実質的に指揮した(当時の)佐賀地方検察庁の次席検事が無責任でひどい人だったのか、その人に無理な捜査をするように押しつけられて自分が追い詰められていったのかが書かれている一方で、無罪となった被告人が執拗に受けたと主張していた市川さんの暴言等については、ごく一部を認めるだけで、あとは記憶にない、ということで済ませています。実際の事件でも、検察官は、被疑事実を否定して争う(無罪であると主張する)被疑者に対して、「真剣に自分のやった行為と向き合っていない」などと非難して自白を迫ることがありますが、著者の姿勢こそが「自分のやった行為と向き合っていない」といわれてもやむを得ないのではないかという気がします。
 もし、著者が、真剣に理想の検察官像を追求する気持ちがあったなら、次席検事から無理難題を押しつけられた時点ですっぱりと検察庁に見切りをつけて検事を辞めることができたはずです。あるいは、自身の行動が次席検事の横暴のなせるわざであり、それを検察庁内部にとどまって訴えていきたいというのであれば、暴言事件後に辞職を迫られたとしても、辞めずに抵抗していくこともできたはずです。むしろ、著者のスタイルを貫徹しようとするのであれば、そのような検事生活を送るほうがよかったのではないでしょうか。
 また、もっとも違和感を覚えるのは、それほど次席検事の横暴についてページを割いておきながら、結局、その次席検事の氏名などがどこにも書かれていないことです。もし著者が、こうした次席検事の捜査方針等に本件の問題の本質があると考えるのであれば、実名を挙げて批判すればいいのではないでしょうか。著者にしてみれば、実名を挙げることで個人攻撃をしていると見られるのを警戒したのかもしれません。しかし、ことは検察庁の体質等に関わる公益性のあることがらなのですから、堂々と著者として真実を書いて次席検事のやり方を世に問えばいいのではないでしょうか。そして、その次席検事が、今、どこで何をしているのか、そうしたことも明らかにすればいいのではないかと思います。そうすれば、その次席検事からの反論がオープンになるかもしれないし、そうやって議論を重ねていくことが検察庁の改革に繋がっていくのではないかと思わざるを得ません。
 著者は自らを自虐的に「検事失格」という一方で、自分以外の(失格ではない)「検事」は、いかに人権感覚がなく、あくどいやり方をしているのかが見事に強調される結果になってしまっています。それは著者の本意ではないはずです。どうすればそうした検察庁の改革ができるのか、自分がそれぞれのターニングポイントで何をやればよかったのか、そうした建設的な意見表明にもっと論述が割かれているとすれば、読み物としての読後感も変わってきたのではないかと思うと少し残念です。