なるしすのブログ

地方の弁護士の日常を,あれこれと書くつもりのブログです。

安田敏朗『辞書の政治学』を読む

 久しぶりに硬派な本を読み,読書の楽しさを味わいました。著者は,一橋大学大学院の助教授(当時)です。この本は,いわゆる学術論文ではなく,一般の読者を対象にした本ではありますが,学者が論理的に丁寧に書いた本であり,完成度の高い書物になっています。脚注も膨大で,そこに引用された文献の数も多く,歴史的な資料から現在も手に入る論文や書籍まで大量に読み込まれて書かれていることがよくわかります。
 タイトルの「辞書の政治学」といのは,耳慣れない用語です。辞書というのは,国語学言語学の対象となるものであって,政治とは関係がなさそうに思えるからです。この本にも,具体的な政治の話はほとんど登場することはありません。
 著者は,大規模な辞典の編纂には国家的なナショナリズムが反映されていると説明し,その嚆矢を大槻文彦の「言海」の編纂作業に見出しています。日本が明治時代になって西洋と並ぶ文明国家となろうとする過程において,近代的な辞書が必要とされていき,それが辞書の編者の愛国心と結びつくことの危うさが指摘されています。
 そのうえで,時代が進んで教育が普及していくに連れて,求められる辞書のスタイルも変化し,実用品としての辞書というものが確立していく,と著者は分析します。戦後においては,学習指導要領で,辞書を引いて,その内容を受け止めていくことが小学校の段階から授業の内容とされ,国家が辞書の習慣化を(国民に)求めていることが明らかにされています。同時に,学習指導要領は,国語教育を愛国心涵養の場として明確に位置づけているのであって,国家が辞書を通じて国民に権威や規範を押し付ることになっていくのではないかという懸念が記されています。
 著者の文章は,決して難しいものではなく,学者として抑制のきいたものです。しずかであるけれども,内に秘めたエネルギーを読み取ることは困難ではありません。著者は,本書の末尾で,読者にこう訴えています。

批判的に辞書を引こう。しかし,それは語釈を批判するためだけではなく,そこにひそむ「権威」に対しても。なぜなら,ことばは「わたし」のものなのだから。
 なにやら青臭い結論ではあるが,そう思う。

 国家が国民をコントロールするのではなく,国民が国家をコントロールしようとするのが民主主義の出発点であるとするなら,現代においては,読者(=日本語の使い手)である国民が,辞書を受け止め,辞書を変えていくこと,少なくとも,「広辞苑によれば・・」式に辞書を鵜呑みにするような態度を取らないことが求められているといえるのではないでしょうか。「辞書の政治学」という耳慣れないタイトルは,最後まで読み進めてすっと腑に落ちるようになりました。