コメントに対するお返事
id:kom_Thaiさん コメントありがとうございます。
殺人事件についていえば、「被害者の生きる権利」や存在そのものを奪い去ったのはまさに犯人自身であり、そのような行為をしたものに対して、「更生する権利」や「生きる権利」まで認めるのはおかしい、という議論はもっともだと思います。ぼくも、麻原や池田小事件の宅間の例を出すまでもなく、「死んでもらうしかない」というような気持ちにさせられることがありますよ。この光市の事件や、長崎市長銃撃事件でも、同じようなことを感じました。
そこでぼくが思うのは、そうした遺族や一般の市民の感覚と、刑事裁判における死刑という刑罰の存否というのは一緒にすべきものではないのではないか、ということです。もし、遺族や市民が死刑を望み、そうした生の感情が死刑を正当化するとするなら、刑罰は「目には目を歯には歯を」という報復の論理と差がなくなるような気がします。他方で、窃盗のような財産犯でも懲役に処せられ、覚せい剤や無免許運転のような被害者がいるともいないともいえないような事件でも懲役になることがある。単に「目には目を歯には歯を」の論理で行けば、財産犯の犯人には、彼が盗んだのと同じだけの罰金を科せばよく、被害者がいないような事件では処罰の必要性はないことになってしまいます。そうしてみると、国家が何を犯罪として規定して、どのような処罰を与えるかということは、ひとまず、被害者の有無やその処罰感情とは離れて、国家が法秩序全体のシステムを考えて決めるべきことだと思うのです。
そうだとすれば、一見すれば死んでもらうしかないような凶悪犯罪でも、死刑を廃止して監獄に一生つないでおくとか、もし更生したと認められるのであれば、社会復帰の余地を残しておくというのも、一つの方法だと思うのです。もちろん、それでは遺族は納得しないでしょう。ただ、遺族が納得することを目的とするなら、遺族にアンケートを採ってそのとおりに刑罰を決めるしかなくなります。「それはおかしい」と思うなら、なぜそれはおかしいのでしょうか。
だんだん、ご指摘の点と離れていってしまいました。
自分の家族が殺されたらどう思うのか、これはそうなってみないと分かりません。しかし、おそらくは、やはりその犯人に「死んで欲しい」と思うだろうし、そいつが出てきて再犯に及ぶようなことがあれば、筆舌に尽くしがたい感情になるでしょう。しかし、自分が国家や社会の中で生きていくのだとすれば、自分の意思とは関係ないところで裁判が進められ、判決が決まることは甘受せざるを得ないのではないかと諦めています。
もっとも、それはぼくが個人としてそう思うだけで、被害者や遺族一般について、「諦めるべきだ」とか「早く忘れたほうがいい」などということを申し上げるつもりはありません。それはまさに、その人の自身の問題です。本村さんのように声を上げ続ける生き方もあると思うし、それが間違っているとか、逆にそうしないのが問題だとも思いませんし。