なるしすのブログ

地方の弁護士の日常を,あれこれと書くつもりのブログです。

「司法」の役目を勘違いするな

 昨日の東京地裁判決に、予想どおり、産経や読売の社説は反発している。
 これも予想どおり、支離滅裂なのが産経

 裁判長は「日の丸、君が代は、第二次大戦が終わるまで、軍国主義思想の精神的支柱だった」とも述べ、それに反対する権利は公共の福祉に反しない限り保護されるべきだとした。これは一部の過激な教師集団が国旗・国歌に反対してきた理由とほとんど同じだ。裁判所がここまで国旗・国歌を冒涜(ぼうとく)していいのか、極めて疑問である。

 この裁判所の判断のどこが、どのように、「一部の過激な教師集団」の論調と同じなのか。それを説明しなければ、批判ではなくただのレッテル貼りだ。産経の主張こそ、一部の過激な御用新聞の論理ではないのか。「裁判所がここまで国旗・国歌を冒涜(ぼうとく)していいのか」などと毒づいているが、どこが冒涜なのか示さなければ、寝言に等しいだろう。
 それに比べれば、まだましなのが読売

 学習指導要領は、入学式などで「国旗を掲揚し、国歌を斉唱するよう指導するものとする」と規定している。判決は、これを教師の起立・斉唱などを義務づけたものとまでは言えない、とした。

 しかし、「指導」がなくていいのだろうか。不起立で自らの主義、主張を体現していた原告教師らは、指導と全く相反する行為をしていたと言えるだろう。

 ちょっと目を疑うが、誤植ではないよね。判決は、学習指導要領で「指導」が定められているが、それとは別に、教師の思想・良心の自由も保護されるべきだとしているのであって、「指導」をしなくてもよいと言っているのではない。読売の「しかし、「指導」がなくていいのだろうか。」という文章は、いったいどういう理解なのか。

 そもそも、日の丸・君が代に対する判決の考え方にも首をかしげざるをえない。「宗教的、政治的にみて中立的価値のものとは認められない」という。

 そうだろうか。各種世論調査を見ても、すでに国民の間に定着し、大多数の支持を得ている。
(中略)
 それにもかかわらず、こうした判決に至ったのは、「少数者の思想・良心の自由」を過大評価したせいだろう。

 ここまでくると、読売には、憲法や裁判所がなんのためにあるのか、その基本がわかっていないとかいいようがない。高校教師を批判する前に、もう一度、自分が高校に入って勉強をし直してきたらどうか。
 そもそも世の中の多数派は、選挙によって多くの議席を獲得することができるし、法律を作って自分たちの理想を追求することができる。ちょうど、国旗国歌法が制定されたように。あるいは暴言やまぬ石原都知事が、多くの都民の支持を得て当選するように。多数派は、数の力で、ある程度、自分たちの権利を実現することが可能なのだ。
 では、少数派はどうなるか。多数決で負けてばかりいる少数派は、多数派の決めたことに従うしかないのだろうか。
 そこで、多数派という数の力から、少数派の権利を守る仕組みが憲法であり、司法であるのだ。裁判所は、多数派が作った法律でも、自らの良心に従って、それが違憲であることを宣言できるし、そうなればその法律は無効として扱われる。裁判官の身分が保障され、憲法と良心にのみ拘束されるというのは、まさに、多数者による横暴から、少数者の権利を守るために考えられた仕組みだ。
 だから、東京地裁が、「少数者の思想・良心の自由」に配慮して、それを踏まえた判決を出したのは、「過大評価」でもなんでもない。司法とはそういうものなのだ。裁判所が少数者の権利を守らなければ、いったい、誰が守ってくれるというのか。
 要するに、司法の場に、「各種世論調査」だとか、「大多数の支持を得ている」などという多数決論理を持ち込むこと自体が間違っているのだ。世論や多数決で決まるなら、裁判所はいらないではないか。
 もちろん、裁判官にもいろんな良心の持ち主がいるだろう。だから、別の裁判所では、別の判断が出るかもしれない。それはそれで、当然であり、やむを得ないことだ。ただ、司法や裁判がなんのためにあるかを理解しないで、多数者の論理を振りかざすだけでは、とうてい社説としての説得力は持ち得ないだろう。
 こうしたくだらない新聞が、ここま司法を冒涜(ぼうとく)していいのか、極めて疑問である。