なるしすのブログ

地方の弁護士の日常を,あれこれと書くつもりのブログです。

脱原発運動と反核運動は、なぜイデオロギーが支配するのか

 東京電力発電所の事件を受けて、当地でも少しずつ原発問題への関心が高まっています。ここから一番近い原発は、瀬戸内海を越えたところにある伊方原発。この原発は、他の原発と同じように、なぜか活断層のすぐそこに立っています。断層が動いて地震がくれば、数秒後には原子炉が揺れ、制御棒が動くまもなく、チェルノブイリ的な事故が起きるのではないかということでした。
 そういうことも含め、弁護士の有志で集まって議論をしたのですが、なかなか難しい。というのは、どうしてもイデオロギー的な運動論とか、バックボーンの問題があって、意見の統一が難しそうなのです。これはこれまでの反核運動も同じです。共産党系の団体もあれば、そうでない団体があったり、政治色が強い運動になっています。原発の反対運動についても、これと同じようなイデオロギー的な対立があるのだそうです。
 しかし、問題はイデオロギーや政治的な主義主張にあるのではなく、原発そのものの危険性にあるはずです。そうした観点から、従来の枠にとらわれずに、自由に集まったり議論したり、裁判を起こしたりすることはできないものでしょうか。
 「反貧困」の運動も、共産党系だと揶揄する人もいますが、あれはあれで、政治色を薄めた形でうまくできていると思います。湯浅さんのキャラクターや、これまでの地道な取り組みがあったからこそですが、大きな広がりを持った動きになっています。ぼくは、それと同じような感じで、脱原発の草の根的な動きが出てこないものかと願います。原発に反対するのに、政治的なカラーや立場は必要ないはずです。小さなお子さんを抱えたお母さん、原発のそばでお米を作っている農家の人たち、あるいは近隣の都市で生活して空気を吸っている市民、そうした人たちがちょっとだけ連帯して、小さな声を上げていくことはできないのか。それをまとめるのに、政治や政党、労働組合などの力を借りる必要はないのではないかという気がします。
 イデオロギーに支配された運動は、そのイデオロギーを受け入れられない人からは、強烈な反発を持って迎えられます。裁判所が色眼鏡で見て判断することはない(と信じたい)としても、Twitterやブログなどでフラットに情報が広がる社会では、もはや不毛な政治的論争や足の引っ張り合いをしている時代ではないのではないかと思います。
 そういう垣根を軽やかに飛び越えたその先に、ぼくらの目指す新しい広場があるのではないでしょうか。