なるしすのブログ

地方の弁護士の日常を,あれこれと書くつもりのブログです。

「私を死刑に」「あなたが生き残った意味必ずある」

 重いダウン症の長男(当時27)の将来を悲観した妻(同53)に頼まれ、2人を殺害した夫(57)に対する判決が4日、さいたま地裁であった。死刑を求めた夫に裁判所が出した答えは、懲役7年(求刑同10年)。若園敦雄裁判長は「長男がダウン症を持って生まれてきたことには必ず意味がある。あなたが生き残ったことにも意味がある」と諭した。

http://www.asahi.com/national/update/0204/TKY200902040312.html

 この朝日の記事につけられたはてブのコメント欄をみて暗い気持ちになりました。→ここ
 コメントの多くは、裁判長の説示に反感を持っているようです。たとえば「単に前例に従って量刑を決めただけだろうに、妙な意味付けや説教するなよ。」とか、「 三権の一翼を担うものとして、これで終りなのか。全部押し付けたまま、に見えるのだが」など。
 これらのコメントはまったく的外れとは言えないと感じますが、司法というものの限界についてももっと知ってほしいと思います。ぼくらが裁判の仕事をしていて思うのは、司法というのは、基本的に「あとしまつ」であり、それ以上のものにはなりにくい、ということです。この記事の例で言えば、家族をサポートしたり、追い詰められた両親や長男をどうすれば助けられたかというのは、行政や立法が考えて実行すべきことだったわけです。司法とりわけ刑事裁判というのは、そうした社会の歪みが犯罪という形で現れてしまったときに、それを事後的にあとしまつをするという手続きに過ぎないわけです。
 そして、そうした司法の限界というのは、この父親の将来についても同様なのです。つまり、彼が刑務所でどのような生き方をするのか、出所後にどのような人生を送るのか、ということについては司法は干渉できないわけです。裁判長の説示というのは、一見すると余計なお世話に見えるけれども、そうした限界の中から生まれてきた言葉であるということに、ほんの少し思いをいたしてもらえればと思いました。