なるしすのブログ

地方の弁護士の日常を,あれこれと書くつもりのブログです。

犯罪被害者の刑事手続き参加とプロセス論

 刑事裁判や民事裁判は、3審制がとられています。また、国民には裁判を受ける権利が保障されています。これは、裁判手続きをプロセスとしてしっかり保障することによって、司法判断に納得してもらおうという意図によるものです。
 つまり、民事の場合でいえば、権利を侵害されたと考える人は、誰でも裁判を起こすことができます。しかも、最高裁まで3回、争うことができます。こうした制度を作ることで、司法判断に対する国民の納得を得よう(逆にいえば、きちんと審理をしたのだから納得をしてくれ)というものです。
 これは刑事でも同じことです。容疑者は、裁判手続きによらなければ刑を科されることはなく、3回までの審理を受けることが保障されます。そうして手続的にも正義を貫徹しようとしているのです。もちろん、判決の内容に被告人が納得するかどうか、それはまた別の問題です。ですが、そうやって出された判断は尊重されるべきだし、それで納得すべきだ、というのが、現在の司法制度の根幹といってよいのでしょう。
 では、犯罪被害者は、どう位置づけられるべきか。犯罪被害者には犯罪に巻き込まれたことに対して、なんの落ち度もありません。容疑者には、刑事手続でそれなりのプロセスが保障されているのに、犯罪被害者には、そうしたプロセス的な保障がありません。検察官が犯罪被害者に適切に接してくれればまだ救いもありますが、それも制度的な保障があるものではありません。
 ある日、突然に犯罪に巻き込まれた被害者が、どうやって自らを納得させ、立ち直っていくきっかけとすべきか、これは簡単な知恵が浮かぶものではありません。そうした中で、被害者自身が刑事裁判に参加する制度を設け、その中で手続に積極的にかかわっていくことを認め、そうした手続を通じて、被害者が納得を得るひとつの機会としようという考え方があります。id:unknown-manさんが昨日のコメントで指摘されたことも、このようなプロセスを保障すべきだという考え方によるのだと思います。こうした考え方によれば、手続に参加するかどうかは、被害者が自分の意思で決めることができるべきであり、参加を希望した被害者には、制度上、きちんとした権利を保障すべきだという結論が導かれることになります。
 これまで、刑事手続というのは、容疑者のためにあると考えられてきました。濡れ衣を着せられないようにするために、あるいは適切な量刑が科されるように、被告人の立場から種々の権利を保障して、適正な判断が得られるようにしていこう、と考えられてきました。今、問われているのは、そうした従来の刑事訴訟のとらえ方を超えて、刑事訴訟そのものを、被害者や遺族が納得する機会としても機能させよう、という考え方だと思います。
 被告人の権利の保障と被害者のプロセス参加の保障、この二つはうまく両立しうるものなのでしょうか。それとも、水と油の関係のように、相いれないものなのでしょうか。水と油でも、たとえば石鹸を入れると混じりあうように、そこに人類の叡知(というと大げさですが)を加えることで、みんなが納得しうる機会となるような訴訟手続というのは作れないものでしょうか。