なるしすのブログ

地方の弁護士の日常を,あれこれと書くつもりのブログです。

死刑事件の弁護をどうやるか

 今日は、日弁連のライブ研修というのがありました。東京の研修を衛星予備校みたいに生中継します。今日のテーマは、死刑事件の弁護。実際に模擬裁判をやりながら、弁護技術について考えるという企画です。講師陣の中に、昨日の日記で引用した安田さんと足立さんも入っています。この企画のために昨日の弁論を欠席したわけですね、彼らは。
 安田さんというのは、右とか左とか、死刑に賛成とか反対とか、そういう立場の違いを忘れてしまうほど、人間的な魅力のある人だと思っているのですが、今日の彼の話の中にも興味深い点があったので、ちょっと紹介します。
 彼によれば、死刑か無期かの選択で最後に決め手となるのは、被告人のとった行動そのものの中身であるといいます。この種の事件では、「有罪か無罪か」、「やったかやらないか」が重要視されがちで、「やった(=有罪)」ことに争いがない事件では、事件の中身のディテールが問われることはなく、単なる情状弁護に力点がおかれることになってしまう、といいます。たとえば、被告人の生育歴が同情すべきだとか、年老いた母が待っているとか、養うべき家族がいるとか、反省しているとか、死刑は憲法違反だとかそういうものが裁判の中心になってしまいます。安田さんは、そのような弁護方針で臨むのではなく、「なぜやったか」、「どのようにやったか」、「どのように考えたか」が裁判の争点にされるべきで、そのような犯罪の詳細こそが量刑を判断する基準になりうるのだと説明します。
 たとえば誘拐殺人(きょうの模擬裁判のテーマはこれでした)にしても、一つとして同じ事件はなく、誘拐や殺害に至った背景や事情はそれぞれ違う訳で、それをきめ細かく解きほぐして裁判所に提示するという作業は、とくに死刑か無期かの限界的な事例においては、とても大切なことのように感じました。
 また、彼の説明によれば、単に情状弁護だけを行うときは、被告人自身もみずからの行動(犯罪)から目を逸らせてしまい、真の反省や立ち直りの機運は生まれにくいといいます。被告人にとっても、自分が人を殺してしまったことなどについては、なるべく思い出したくない嫌な体験です。罪をすべて認めるといえば聞こえはいいですが、「すべて認めて争わない」という姿勢をとることで、みずからが行った行動に蓋をしてしまい、それに正面から向き合うことを避けてしまうようになる、と安田さんは指摘します。そうではなく、弁護人が「なぜやったのか」、「どのようにやったのか」を問いただし、被告人にぶつかっていく過程で、被告人も自分の行動と向き合い、そこから反省や贖罪の気持ちが浮かび上がっていくのだといいます。そして、そのような被告人の変化を法廷に示すことができれば、それが被告人の量刑を左右する事情にもなるといいます。
 こうした視点から昨日の光市の母子殺人事件を見るとき、安田さんらがとった行動も、なるほどそういう意味があったのか、と理解できる部分もあります。弁護人自身がそうやって事件を見つめ、被告人とぶつかって事情を聞き、弁護人が納得できない限りは、最高裁で「弁論」を開いても、それは単なる儀式にしかすぎなくなります。そうではなく、弁護人が事件の全体を理解し、「なぜやったのか」ということを把握しなければ、実質的な意味での弁護活動はできないのではないか、と思うからです。
 もちろん、その結果として、弁護人がそうした努力を放棄した場合と比べれば、裁判が遅延することにもなるでしょう。ですが、遅れたとしてもせいぜい数カ月です。死刑か無期かが問われている刑事裁判で、その程度の時間が新たにかかったとしても、それは許容されるべきなのではないでしょうか。それとも、わが国の司法は、弁護人がそうした努力をすることさえ認めず、何がなんでも迅速な裁判を目指すのでしょうか。ともすれば人は、「有罪か無罪か」という事件にはそれなりの関心を示しますが、いったん「やった」ことが自明となると、あとはスピード判決を求めるようになってしまいがちです。適切な量刑判断は、そうしたスピード本位の考え方からは、なかなか生まれにくいのではないでしょうか。

(追記)3.18
 ネットのブログを検索してみると、ほとんどは弁護人に対する罵倒で埋め尽くされてますね。そんな中で、わずかですが、そうではない意見もお見かけしました。ここに来てくれた人にも、読んでもらえたらと思うので、リンクをはっておきますね。
http://blog.goo.ne.jp/thundertiger/e/4e0898bb91bba4ce45334fad050d181d