なるしすのブログ

地方の弁護士の日常を,あれこれと書くつもりのブログです。

 自民党と御用新聞の改憲論を嗤う

・家族が基本、家族を大切にして、家庭と家族を守っていくことが、この国を安泰に導いていくもとなんだということを、しっかりと憲法でも位置づけてもらわなければならない。
・せめて家族関係、親子との間について規律を定めておくことは、養育の義務あるいは扶養というか保護というか、その種のことが残念ながら必要になってきているのではないか。
・家族に対する規定が憲法の中にないが、国が家族保護をきちんと書くべきだ。
・人間の支えとなるもの、根底は家族に決まっているわけで、その家族観をぜひ憲法に書いて頂きたい。民主党自民党と一体どこが違うんだと言われれば、ひと言で言える。全くの1個人を大事にするか、家族を大事にするかの差だ。
・あらゆる面で社会との調整という面が捨て去られて、ややもすると個人の権利、保護、保障に走ったということが、さまざまな分野でいびつな問題を引き起こしているのではないか。
・権利に対応するのは義務といわれているが、むしろ責任、責務が国家を形成する、あるいは社会を形成する個人の立場で考えれば、それが強調されるべきではないか。自分勝手な権利の主張だけでは、とうていコミュニティというのは維持できない、国家も維持できないということになるのではないか。

今、自民党憲法調査会なるところでは、上のような議論が大まじめになされているようです。http://www.jimin.jp/jimin/kenpou/detail09.html

そして、読売新聞の2004年私案というものの前文は、驚くべきことに次の文章で終わっています。http://www.yomiuri.co.jp/teigen/2004kenpo/2004kenpo01.htm

この憲法は、日本国の最高法規であり、国民はこれを遵守しなければならない。

 いったい、どうしちゃったのでしょうか。
 この人たちは、憲法がどのようにして誕生し、なんのために作られてきたかということを全く理解しておられないようです。
 簡単に世界史を振り返ってみます。
 もともと、封建社会では国王が全権力を握っていました。市民は、国王の圧政に苦しんでいました。次第に、市民は、代表者を通じて行動するようになり、議会というものが生まれてきます。議会では、特に、国王の課税権をコントロールするようになり、議会の同意がなくては税金を勝手にかけられないようになりました。そうやって、国王の権力が、少しずつ市民の手によってコントロールされていくようになりました。そのときに、国王と議会(市民)との間では、約束事を「憲章」とか「章典」とかいう形でまとめてきたものです。
 やがて、革命がおこり、主権が国王から市民・国民の側に移りました。その際、国王に替わってどのようにして国家を統治していくか、そして国家権力が勝手気ままに国民の権利を蹂躙しないようにするためにはどうすればよいか、ということが考えられ、憲法をつくって権利を守り、行政機構をコントロールするという発想が出てきたのです。もちろん、それは降って湧いたように誕生したものではなく、先に述べた「憲章」とか「章典」というものがベースになって憲法が作られていったのです。
 したがって、近代の憲法が目的としていることは、国家権力をどうコントロールしていくか、国民の権利をどのようにして守っていくか、という点に尽きるのです。そうしてみると、憲法に多くの権利規定が盛り込まれる反面、義務規定がほとんどないことも容易に理解されるでしょう。また、憲法は国民が国家に対し、これだけは絶対に守ってくれという意味で突きつけたものですから、憲法を守るべきはあくまでも国家であり、国民ではないのです。
 このような視点で自民党や読売新聞の議論を見ていると、まったくお笑いとしかいいようがありません。
 とくに自民党の「家族」を連発する姿勢はなんですか?
 家族が大切なことは否定しませんが、そんなことを、国家をコントロールする根本規定である憲法に書いてどうするのですか?
 国家が憲法を作り、その憲法で国民を指導するかのような勘違いをしていませんか? 憲法はむかしの17条憲法とか、5カ条のご誓文とは根本的に違うものなのですよ。
 どうも自民党は、国家というものを守るために国民に対してあれこれ注文し、そのことを憲法に謳いたくて仕方がないみたいですね。ですが、もともとをいえば、国家のあり方は国民が決めればいいことで、国家権力をコントロールする手段である憲法に、いちいち国民はこうあるべきとか、家族とは、なんてことを書く必要もないし、教えていただかなくてもいいわけです。
 そんな憲法を作ってしまったら、それこそ世界の笑い物ですよ。自民党の人たちは、自分たちが憲法をないがしろにする行動を繰り返しておきながら、改正の議論になると、逆に、勝手に理想的な家族像をぶちあげ、憲法を守るよう国民に押しつけようとするというのは、どう考えても傲慢というか歴史を無視しているというか、勝手気ままというほかはありません。
 今の憲法アメリカから押しつけられたものであるとするなら、次の憲法自民党などの議員による押しつけになってしまわないことを祈るばかりです。